資本主義を正当化する論理として、
個人が悪(利己主義)を追求しても、社会全体は善になるというロジックがあります。いわゆる、神の見えざる手の奇跡です。
個人が悪(利己主義)を追求しても、社会全体は善になるというロジックがあります。いわゆる、神の見えざる手の奇跡です。
しかしながら、これはほとんどのケースではフィクションでしょう。
企業が環境に悪いこと、炭素排出を増やしたら、全体としてそれで環境が良くなることはありません。
また、図のように、意図としては善の行為も結果として悪になりうることもあります。
正の外部性が生じるケースよりも負の外部性が生じるケースの方が圧倒的に多いでしょう。
この前提が狂うことは資本主義に大幅な修正が必要なことを意味しています。宇沢先生の社会的共通資本にも通じる考え方でもあります。市場取引に適さないものがある。それをどう扱うかが、哲学、倫理であり、徳と言えるでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿